伊勢神宮の吉川竜実さんに学ぶ「神道」縄文意識覚醒アート―⑮神奈川沖浪裏―(八)

「縄文意識」とは、己が生業なりわいに全力で勤しみ、無我や没自然の境地となって真の自己を解き放ち、あるがままの姿で自由に生き切っていく意識のこと。=0意識(私=0=∞)=ゼロ・ポイント・フィールド。

吉川さん:そこで最終的にもう一度、『神奈川沖浪裏』の真の隠された主題とは何かを考えてみます。北斎が描写したのは、大波の狭間に見える富士の絶景に留まらず、大波のエネルギーと大地から聳え立つ富士のエネルギーとが厳しく拮抗し爆発する、エネルギーに満ち溢れた「一見何もない空間」。

画面中央に位置するこの空間を描くことこそが、彼の意図した本当の主題ではなかったかと思われてならないのです。それは絶体絶命の極限状態にあって生命が全身全霊を以て生き切ろうとする瞬間(=爆発)に、大自然や宇宙の営みともいえる調和・秩序・循環という働きが訪れ、「透明なる混沌=無=ゼロポイント・フィールド」が生み出されるともいえると思っています。

では、この何もない空間がわれわれにもたらすものがあるとするなら、それはいったい何なのでしょうか?

それを理解するには、以下、太郎による三つの指摘が非常に有効です。
一つ目は、次の太郎の至高の芸術(=何でも無いもの=呪術)論ともいうべきものです。

通用する芸術(絵画)などというものは不潔である。
私は次の三つの段階を考える。芸術(絵画)はまず趣味的な面でうけ入れられる。「いい絵」というのは、洗練された趣味の段階である。ここには
愉楽ゆらくがあり、幸福感がある。高い値段をつけられ取引される。

次の段階、これは深刻である。
それにふれると、理解をこえて、ぐんと腹に迫ってくる。その精神・内容がうってくるのだ。ほとんど息苦しい。愉楽はないが、緊張と生きがいにもえる

そして最後の段階。
ここでは
すべての理解はこえられてしまっている。―― 何でもないもの、これこそ至高だ。

何だかわからない、何でもないということさえもわからない。その瞬間から、それが私にとって呪術をおびはじめる。

共通の価値判断が成り立たない、自分一人、自分自身にも価値判断がわからないものに賭け、貫いていかなければいけない。まして他人の目、世間の評価などは、何の意味があるだろう。

共通の価値判断が成り立たない、自分一人だけにしかはたらかないマジナイ。芸術(絵画)はそういうものであっていい。ところがもしそれがいったん動きだせば、社会を根底からひっくりかえすのだ。

といってもこの力は、強烈にかかわりながら、人々に気づかれない。感覚などという狭い意識の表層を媒介にするのではないからだ。まるで無感覚と思われる領域、巨大な幅ではたらく。
芸術が理解を拒否していればいるほど、力なのだ。


 (序 ││ 呪術誕生「瞬間と爆発」(岡本太郎の宇宙Ⅰ『対極と爆発』)より)

それから二つ目は、ものが無い「空」にこそ生き方のすべてを賭けるという日本文化の原型となった精神風土の存在とその重要性、およびそれが縄文土器と同質の生命感を保有しているとする以下のごとき見解です。

いま偶然残ったわずかな証拠。片鱗へんりん、だがそれらを見ただけでも、無限の過去に次々と没し去り、消されてしまった夢の壮大なイメージが浮かびあがってくる。ものとしてある絶対観は、その生命が人間精神とともにひらく瞬間にこそ生きる。それだけでよい。「遺物」自体がそう語っている。

惜しみなく消えて行った文化が、どのくらい巨大で高貴であったか。
だが私はもう一歩進みたい。
ものを作ってそれが失われたのではなく、ものが無い「空」に生き方をけている精神風土、そのひろがりがあるということ。とりわけ私は日本人として、その虚の気配に面するとき、手応てごたえを覚える。この世界にはそのような文化圏が確かにあるように思える。

(波線は編集部による)
(次号に続く)


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