先人たちが残してきたさまざまなアートには、調和と共生の象徴でもある縄文的感性を覚醒させる手がかりがあるようです。そこで世界的にも突出した浮世絵師・葛飾北斎の「富嶽三十六景」を題材に、日本人の精神性を縄文に遡って探究していた岡本太郎の芸術論を交えてご紹介いたします。
吉川さん:ところで岡本太郎には、縄文意識に直結する芸術論があります。これについて太郎自身が、一般の日本人が好む抒情性や柔和さ溢れる作風の俵屋宗達に比べて、尾形光琳の冷徹で非情な美しさを敬愛し、「わたしはかつてこのように正面からぶつかってくる日本画に、ふれたことは一ぺんもありませんでした」と讃えています。さらに光琳の『燕子花図屏風』と『紅白梅流水図屏風』に対する深い思索と洞察から、その芸術論が見事に結実され纏められているのでご紹介します。
こういうと、彼の画面は自然それ自体としてのなにものをも感じさせず、そこには水も、空気さえもない、と前に言った言葉といちおう矛盾するように思われるかもしれません。だがけっして矛盾しないのです。
光琳芸術の相反する対極はたがいにすこしも譲歩していない。この非妥協は矛盾に極度の緊張をあたえます。はげしく対立する力の均衡は絶対静止の相を帯び、瞬間に時空が解消するのです。
この非情の場で見るとき、私がまえに言ったとおり、美しい流れにはじつはなにものも流れておらず、群青の花弁はただ真空の空のなかに咲きほこっているかと見えるのです
だが絶対静は絶対動を想定します。それは死であり、また同時に生なのです。だから動・生の相として見れば、矛盾ははげしい相克の姿となって現われ、緊張した高揚のリズムが鳴りひびきます。
次に太郎のこの芸術論をそっくり充当して、『神奈川沖浪裏』のメインテーマとされる大波(=絶対動)と、「わが国の鎮めの神」とも讃えられる霊峰・富士(=絶対静)を観察してみましょう。両者の画面中央での激しい相克(➡第三の対極=瞬間=爆発)は、当該絵画から自ずと昂揚したリズムが鳴り響いてくるかのようではないでしょうか。
また続いて太郎は、絵画の装飾性と芸術の問題についても注目すべき見解を示していますのでご紹介します。
さて彼の装飾性の問題ですがー。 まえに、「燕子花」と「紅白梅」の図について私は、画面の梅には梅のなにものも感じられず、川は流れていないと言いましたが、たんに造型の面だけでいえば、それはすでに素材がたんなる手段となり、それ自体としての意味を解消しているということです。
なるほどこれらの作品は大いに装飾的です。しかし本質にはその反対のものもふくんでいる。ここにじつは芸術のただならぬ問題があるのです。
装飾性と芸術の関係はたいへん複雑ですが、芸術が本質においてはたんなる装飾の反対物であることは確かでしょう。真の絵画は装飾性をおびることはできますが、けっして純粋の装飾ではなく、それを越えたものでなければならない。
( 略 )
では光琳の装飾芸術において、それを乗り越えるものはなにか。――ふたたび「紅白梅」、「燕子花」の図を観察してみましょう。
抽象化され、装飾化された画面にむかって、私の感じるのは、すでに私の目にはなにもうつっていないのではないかという思いです。
ただ撃たれているという感じ。なにかおそろしい雰囲気につかれて、そこにある。まえにも言ったように、もはやどこかに咲いている梅や燕子花についての関心ではまったくない。
岡本太郎著「三、光琳││非情の伝統」
(『日本の伝統』所収)
(波線は編集部による)
描かれている「梅や燕子花についての関心ではまったくない」ならば、太郎はいったい何に撃たれているのでしょうか?
バックナンバーはこちら▼
今月の北斎 「神奈川沖浪裏」(富嶽三十六景)
尾形光琳「紅白梅流水図屏風」(国宝)
屏風中央の流水(絶対動)と両側の紅白梅(絶対静)との対峙、流水を隔てた紅白梅の対峙による「対極するものが生み出す高揚のリズム」を感じてみてください。
吉川 竜実さんプロフィール
皇學館大学大学院博士前期課程修了後、平成元(1989)年、伊勢神宮に奉職。
2016年G7伊勢サミットにおいて各国首相の伊勢神宮内宮の御垣内特別参拝を誘導。通称“さくらばあちゃん”として活躍されていたが、現役神職として初めて実名で神道を書籍(『神道ことはじめ』)で伝える。