神道ことはじめ 特別連載  「縄文文化と神道Vol.5 -丸木舟-」

「神道ことはじめ」コラム

神道の起源を縄文文化に訪ねるシリーズの5回目。今号では、高度な航海術によって遠方との交易を果たしていた遠い祖先たちの躍動的な足跡と信仰を紐解きます。

吉川さん:約7〜5千年前の縄文前・中期には、すでにヒスイやコハク、黒曜石やアスファルト・貝殻など産出地が限定される有用な物資をはじめ石器や土器・漆器に至るまで遠隔地へと運搬され、各集落間の交易が盛んに執り行われていました。

また沿岸部の集落では加工した干し貝や干し魚・塩などの海産物を内陸部の集落へと運んで山や野から採集された山の幸と物々交換されていました。

その交易範囲は北は東北・北海道、南は九州・沖縄諸島にまで及んでいます。

このような広範囲に及ぶ物流ネットワークの形成に必要不可欠であったのが「丸木舟」です。千葉県市川市の雷下かみなりした遺跡よりは、一本のムクノキを焼いた石器でくりぬいて造られた全長約7.6メートル・幅50センチの丸木舟と約2メートルのかいとがセットで出土しています。

これらの丸木舟を操り広大な海域へと進出し交易を果たした、縄文の人々が保有していた大変高度な航海術には驚愕せざるをえないのではないでしょうか。

奈良時代成立の『万葉集』巻七には、
 海人あま小船帆かも張れると 見るまでに
 とも浦廻うらみに 波立てり見ゆ

とあって、舟が風を受けて帆走しているのを読み取ることができます

古代の帆にはとまとかむしろが使われていたと思われますが、しかしながら舟に帆が取り付けられるようになったのは、およそ4世紀から5世紀にかけてのことと推測されています。

岐阜県大垣市荒尾南遺跡出土の弥生土器や鳥取市阿古山22号墳の横穴式石室の内外には、線刻された帆船の画が施されています。

また『肥前国風土記』船帆郡の条には、村人たちがこぞって舟に帆を張り三根川の港に参集し第十二代景行天皇のご巡幸につかえたという古伝承があります。

更に『日本書紀』巻第九には、第十三代仲哀ちゅうあい天皇の皇后であった神功皇后の三韓征伐において、新羅しらぎに向かう船団が「大きなる風順かぜおひかぜに吹きて、帆舶波ほつむなみしたがふ。梶楫かぢかいいたつかずして、便すなほち新羅に到る」と順風満帆に海を渡って目的地へ到着したことが記されています。

縄文の人々も大海に舟を漕ぎ出すにあたっては、必ず航海の安全祈願を海の神々に捧げたことでしょう。

その対象となった神としてはイザナギノミコトの禊祓の段でツツノオノカミと共に出現なされた、ワタツミノカミの存在が指摘されます。

それはツツノオノカミという神名が「太い帆柱受けの筒柱の神」と語義解釈され、帆船の生命線ともいうべき帆柱を立てる技術が登場してから祀られるようになったと考えられるからです。

従って縄文以来の海の神はワタツミノカミであったと見られるのです。

     入唐使に贈れる一首
  海若わたつみの いづれの神を 祈らばか
  くさもさも 船の早けむ
         (『万葉集』巻九より)

     

吉川 よしかわ竜実たつみさんプロフィール
皇學館大学大学院博士前期課程修了後、平成元(1989)年、伊勢神宮に奉職。
2016年G7伊勢サミットにおいて各国首相の伊勢神宮内宮の御垣内特別参拝を誘導。通称“さくらばあちゃん”として活躍されていたが、現役神職として初めて実名で神道を書籍(『神道ことはじめ』)で伝える。

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