先人たちが残してきたさまざまなアートには、調和と共生の象徴でもある縄文的感性を覚醒させる手がかりがあるようです。そこで世界的にも突出した浮世絵師・葛飾北斎の「富嶽三十六景」を題材に、日本人の精神性を縄文に遡って探究していた岡本太郎の芸術論を交えつつ、内なる「縄文的感性」の覚醒に向けて働きかけてまいりましょう。
吉川さん:それから『武州玉川』と対をなす絵として、筆者は『富嶽三十六景』中で唯一、眺望の対象としての富士ではなく登拝の対象としての富士そのものが描かれた『諸人登山』を挙げて共に鑑賞されることをお推めしたいと考えています。
それは当絵画が『富嶽三十六景』出版当初の企画であった全三十六枚が完結した後に追加された十枚の内の一枚で、まさにその掉尾を飾るにふさわしい一図であったからです。
また本絵の描画内容からして当時の富士信仰を最も理解しやすくするために、富士そのものを具体的に北斎が意図して描いたものと考えられるからです。
その構図は上段・中段・下段と三つに分けられており、富士頂上における登拝者の様子が活き活きと描かれています。
すなわち画面下段中央では一人の登拝者が梯子を駈け登り山頂の駒ヶ岳(標高3718m)に到ろうとする姿と既に到着した者とが描かれ、画面中段の左には四名の登拝者が腰を下ろして休憩する様が描写されています。
また同段中央では夫婦とおぼしき二人がまさに最高峰の剣ケ峰(標高3775・8m)を目指して登拝しています。
そして画面上段の右では山頂の洞穴(人穴とも)にてご来光を待ちわび暖を取るためか数多くの登拝者たちが密集して描き出されており、画面下段の右ではお鉢巡りを果たしたと思われる四名の登拝者が表現されています。
このお鉢巡りとは、古来富士山頂の噴火口を仏教の大日如来の内陣に見立て、その周囲にある八つの突起を「富士八峰(または八葉)」と崇めて巡礼する行事のことをいい、登拝者は仏教の礼法に従って右回り(時計回り)に巡る風習があったといわれています。
どうして左回りではなく、右回りに巡ったのだと思われますか?
その理由について、もちろん仏教的側面からの影響は認められるものの、たびたび富士山火口から爆発噴火した歴史的経緯を考慮し、さとうみつろう氏がバシャールと対談された内容から次のような意見を参考に供するならば、当時の登拝者たちは本能的に「火防」のために右回りのお鉢巡りを繰り返したのではないかと類推しています。
みつろう:ニコラ・テスラという発明家が自分の家に入る前には必ず自分の家のまわりを3周左回転に周ったそうです( 略 )
みつろう:ちなみに、先ほどテスラの例は、「3回」がポイントなのか「左回転」がポイントなのか、どちらですか?
バシャール:この場合は「3回」ということと「左回転」ということの両方が重要でした。たとえば、左巻きというのは緩むという作用がありますので、その人の気持ちを「緩める」ということになります。そして、この「物質的な」宇宙のなかでは「3」という数字には大きな意味があります。(『その名は、バシャール』261ページ参照)アートの世界でのコミュニケーションの方法として「rule of Three(3の法則)」があるようです。
みつろう:なるほど、緩むために回ったんですね。「左に回すと緩む」なら、「右に回すと締まる」ということであっていますか?
バシャール:そうです。( 略 ) 地球の皆さんがまだこの意味がわからない理由は、そのことに対して充分に敏感な人の数が少ないからです。私たちにとってはもう当たり前のことなので、既に本能的に自分のなかに組み込まれてしまっていますし、テクノロジーとしても完成されているので、逆にもう意識的に回転の違いは使っていません。それを本能的に選ぶようになってしまっているからです。
みつろう:なるほど、たぶん地球でも、昔の人は「当たり前」のように左と右を使い分けていたんだと思います。左大臣と右大臣の偉さの違いとか。右が「み」なので水は落ちながら中心に集う。左が「ひ」なので火は燃え上がって拡散していくなど。
(第3章「『UZU』〜左回転の法則」(さとうみつろう著『AI生命体バシャールに人類の未知を聞いてみた』より) (筆者サイドライン付す)
吉川 竜実さんプロフィール
皇學館大学大学院博士前期課程修了後、平成元(1989)年、伊勢神宮に奉職。
2016年G7伊勢サミットにおいて各国首相の伊勢神宮内宮の御垣内特別参拝を誘導。通称“さくらばあちゃん”として活躍されていたが、現役神職として初めて実名で神道を書籍(『神道ことはじめ』)で伝える。